気付きのOUTPUT !! ~ 日々の学び・見聞をここにアウトプットします ~

■FACEBOOKもやってます! https://www.facebook.com/masahito.tomimoto

担任、息子の入学式へ… わたしの意見。

 

担任、息子の入学式へ…県立高校教諭勤務先を欠席、教育長が異例の注意 (埼玉新聞) - Yahoo!ニュース

 

今日はこのニュースが世間で物議を醸していたようですね。

県西部の県立高校で50代の女性教諭が長男が通う別の高校の入学式に出席するため、担任を務める1年生の入学式(8日)を欠席していたことが分かった。新入生の保護者らは「今の教員は教え子より息子の入学式が大切なのか」と困惑している。

来賓として入学式に出席した江野幸一県議(刷新の会)は「担任の自覚、教師の倫理観が欠如している。欠席理由を聞いた新入生たちの気持ちを考えないのか。校長の管理責任も問われる」と憤慨。

県教育局は「教員としての優先順位を考え行動するよう指導する」としている。

この内容に対し「この教諭もプライベートがあってあたりまえ!」といったような擁護する意見が多かったように見受けます。私自身、同じ子を持つ親として同じように感じると思います。

そして考えましたが、この問題は学校教諭という公職性が中途半端になっていることが宜しくないのではと感じました。

 

  • 社長が息子の入学式の為入社式に欠席
  • 知事が息子の入学式の為入庁式に欠席

 

例えば高校の一般教諭ではなく上記のような立場の人であれば、反発があって当然だったのではないでしょうか?

興味本位で調べてみましたが、高校教諭の「報酬」はプライベートを犠牲にするには中途半端のようです。


高校教師の給料・年収

公立高校の場合、45歳で年収は740万円ほど。一般の企業よりか高く、公務員としての待遇となるため、職が安定しており、福利厚生も充実しています。また、ボーナスも年2回4,5ケ月分支給されています。

 

結論

わたしは「教育」というものが持つ影響力は計り知れないと感じています。なので、教諭という仕事は昔のように「聖職」に位置づけ見合う報酬も整備すれば良いと思うのです。

このような認識があれば今回のような問題は起こらなかったのではないでしょうか?

〜そうなんだろうか? 〜『人間は働かない状態のほうが人間的で自然だ!』

グノシーはご存知ですよね!

SNSアカウントと登録しておくと独自のアルゴリズムで興味にあった最新のニュースを毎日届けてくれる。

というサービスです。

このところ、自身では投稿した覚えの無い

ブラック企業」や「社畜」に関する

ニュースを引っ切りなしに届けてくれます。

そのような投稿は一切していないのですが、非常に興味があるキーワードなので、

Gunosy」凄いって感じる今日この頃です。


そんなこんなで、最近「脱社蓄ブログ」という独自の仕事(社会)観で

綴られているブログのある記事に出会いました。


そのブログでは、『人間は働かない状態のほうが人間的で自然だ!』と主張されています。

-----
『人は働くために生まれてきたのではない。どちらかというと、働かないほうが良い状態だ。働かない方が楽しいし、疲れないし、健康的だ。あらゆる面において、働かない方が人間的だといえる。ただ、一点だけ、お金が稼げないという問題があるだけである。』
-----

考えちゃいました。。。  「確かにそうだよねぇ」とも思いました。


ただ、熟慮した結果、わたしは違った意見を持っていると思いました。

そのポイントが2点あります。

 ①ギブアンドテイクで社会は成り立つ
 ②人間、より良く生きたいと思うのが自然

まず、人間は社会を形成し生活しています。社会生活とは共同生活といえると思います。

その共同生活では、

「提供してもらうこと」もあれば、「提供すること」があります。
そして、それらはGive&Takeの関係なのだと思うのです。

仕事とは、この「提供すること」に他ならないのではないでしょうか...?

仕事とはなんぞや!を、わたしは

「人間が共同生活を送るための役割や責務」だと定義しました。


遊びに行こうと思っても、公共交通機関で働いている人がいるから可能なわけで

飲食店で食事をするのも、スーパーで買い物をするのも、

そこには、仕事をする労働者がいます。


会社だとか上司。お金等、現代の枠組みで考えると見えにくくなりますが、

大昔から、田畑を耕す人、衣類を作る人家を建てる人などの役割があります。

また、周りにいやな思いをさせない為に、家の前を掃いて綺麗にするのも

「人間が共同生活を送るための役割や責務」

の細かな一つだと思うのです。


次に、何が「人間的で自然」か?という解は人それぞれだと思いますが、

知らない街を旅してみたーい。おいしいものを食べたーい。最新のゲームをしたーい。など、

人間より良く生きたいと思うのが、わたしはどちらかというと自然だと思うのです。


ただ、楽をしたい!というのも自然だと思います。

その為に効率をあげ、生産性を高めようとしている訳ですが、

楽をしたいので、もう役割(社会)なんかいらない!

とはならないのではないでしょうか?


極論ですが、仕事を否定することは、社会(共同)生活を否定することになると思います。

 

 

また、どの程度の快適な暮らしが良いか? の価値観は十人十色だと思います。

原始時代から現代まで各時代の社会レベル、その良いところ、悪いところ

色々ありますが、生きる時代を選ぶことは出来ません。

自分が生きている、現代の社会レベルの範囲で選択するしかありません。

いつの時代も同じです。


社会が個人には合わせてくれませんので、個人が社会を選択しても良いと思います。

発展途上国に移住するのも良いでしょうし、無人島で自由気ままな生活をおくるとか。。。。

 


言えることは、

ギブアンドテイクで社会は成り立つということ。

そして、

ギブとテイクが等価であること。


仕事はしないけど、社会の恩恵は受けるなどという都合の良いことないんじゃないのかなって思うのです。

 

ブラック企業や、パワハラ上司が問題であって、仕事しないほうが自然とは、わたしはどうしても思えないのです。

皆さんはいかがでしょうか....?

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


人気ブログランキング

~驚きの動画~ 『人間は、自分に都合の良いものだけを見ている。』

えー、おれって

『自分が見ようとしたものだけを見ている。。』

つまり、

『自分に都合の良いものだけを見ている。』

と、思い知らされた出来事について書きたいと思います。

それは、この動画を見せられたときのコトです。


※こちらの動画をご覧いただき、白色の服を着たチームが、何回パスをするか? を数えて下さい。

※動画を見るまで続きは読まないで!


awareness test - YouTube

 

 

 

 

如何でしたでしょうか....?

 

 

なにかの異変に気付きましたか??

 

 

では、今度は黒色のチームを意識してみて下さい。もうお分かりですね!

 

 


「自分の目で見たこと。」は、文字通り「自分の目で見たこと。」なんだから、こんな確かなことはないと思っていました。

しかし、人間の脳は目に映る全てを解釈すると処理量が膨大となることから、あえて、このようなフィルタが掛かるらしいです。

そして、自分が見ようと思っていることを取り込み、それ以外を排除してしまう。つまり、多くの人は一つの側面からしか物事がみえないことがある。ってことです

 

 もうひとつ、書籍「7つの習慣」で印象的だったことの一つが、下の絵です。

これは有名ですね! おばあさんに見えますが、見かたを変えると若い女性にも見えるというやつです。

 

わたしも、ずいぶん前から知っていましたが、騙し絵くらいにしか思っていませんでした。

この絵が教示しているのは、「たとえ同じ一つの現実を(絵)を見ていたとしても複数の正しい真実がある。」

ということを学びました。

わたしは、コミュニケーションにおいて、よく相手に対し「わかってないな」とか「なに見てんだ」と自分が正しいという観念から離れることが出来ませんでした。

 しかし、このことを学んでからは、「きっと相手は自分とは違う正しい事実を見ているのだ」と思うようになり、少しだけ(笑) 人の話を聴くことが出来るようになりました。
これは、相手との関係がよくなるだけでなく、自分では捉えられない「新たな知見を得る」ということでもあるのだと思います。



●自分に都合の良いものだけを見ることが往々にしてある。
●ひとつの物事に対し複数の正しい捉え方がある。

 

肝に銘じたいです。

負の心① いつから自信がなくなった?


 今回のテーマは、「負の心」です。

人間は余計なことを考えます。
考えても何も生まないことを考え、やる気をなくし、諦め、悩み、気を落とし苦しみます。
わたしは、その類を「負の心」と名付けてみました。
わたしたちはこの「負の心」に、普段からどれだけマイナスの影響をうけているか知り、断ち切る必要があると思っています。

でも断ち切りたいけど、断ち切れないってのが人間だと思ってましたが、時間は掛かりましたが、最近では少しづつ身になってきた!って実感するまでになりましたので、小生の考えと実践を、何回かに分けて記したいとおもいます。

 

負の心① いつから自信がなくなった?

自信をなくすということは「自分には出来ないのでは?」と思う心です。
「そういえば、わたしは、いつから自信をなくしたのだろう?」
と考えさせられる出来事がありました。

先週の土曜日のことです、わたしは、ある勉強会に参加し
夜8時頃に家に帰ると、4歳(幼稚園年中)の次男が、
毛糸片手にわたしに擦り寄って来ました。
なにやら、近所の子供たちのあいだで「あやとり」がブームらしく
7歳の長男がやる「ほうき」を教えろというのです。

とにかく、お兄ちゃんがすることは何でも真似たい年頃です。
わたしは、二つ返事で承諾し夕食もとらず、早速教えはじめました。

 

が、、、


2、30分、手ほどきした私は愕然としてしまいます。
正直言って話しになりません。。
4歳の子供の指は短く不器用で、まともに動かないのです(汗)
練習すれば出来るようになるとは、とても思えず。
「ほうきは小学生からだね...!」
と、切り抜けようと試みますが、時既に遅く。。


「パパ、わかった(教える)っていったじゃない!」「ウソ付き!」
と罵られる始末です。
そして次男は、自分は「できる!」と頑として言い張ります。

う~ん、困ったぞ。
わたしは、とりあえず夕食をとり、どう対応するか考えました。

絶対出来ないと落胆するわたしと
やると言い張る次男。

 

 

結果を話すと、土曜日夜遅くまで(寝オチでした(笑)
そして、次の日のゴハンの時も、お風呂の脱衣場でも、
綾取りを握り締めた次男は、日曜の夜、とうとう「ほうき」を完成させました。

 

f:id:kenjiminami10:20130917154822j:plain

 

わたしは考えました。。

何故、絶対出来ないと思ったのだろう。。
自分の知識、これまでの経験に基づき「出来ない」と判断したのでしょうが、その時は本気で、駄目だこれは!と感じました。

ただ冷静に考えると根拠はありませんでした。

わたしは、いつしか根拠も無いのに諦める癖が付いていたのです。

 

次男は違います!

ただひたすら「やりたい!」と願い。
「自分では出来ないのでは?」なんて微塵も考えなかったのだ。

私自身も同様の経験があることを思い出しました。
 ・こまなしの自転車に乗りたい!
 ・お父さんとキャッチボールしたい!

このときも、「自分には出来ないのでは?」なんて観点はなく
ただ、一生懸命できるようになることだけを考え。。

 

 大事なことを忘れていました。


「人間は、強く願うことで」

時間は掛かっても、大概のことは出来ないと思えることでも成しえるということ!

 

じゃー諦めなかったら「イチローのようなメジャーリーガーに!」「本田のような世界で活躍するプロフットボーラーに!」なれんのかよ!? と言われそうですが、なると決め!決心し、微塵たりともほかのことを考えずに邁進すればなれるのかもしれません! が、正直それは、いまの私には分かりません。。(無責任なことは言えませんのでw)


ただ、わたしが言いたいのは、殆どの場合、無理だと思っていることに根拠は無いこと。そして、その思考はマイナスはあっても、生産的には働かないのだろうと思います。

そんなことを気付かされました。

良い信念。悪い信念。


 今日は、「信念」について考えてみました。

 

信念とは何だろう?
それは、信じて疑わない考えであって、その人のポリシー。曲げられない考えと言えると思う。

自分勝手で我が強いということ?

それとも、芯のある強い人間ということ?

色々考えてみましたが信念には「方向」「強度」とがあるように思います。

方向は、その信念の向きという軸であり(善⇔悪 美⇔醜 真⇔偽)
強度は、文字通りどれだけ、その信念を強く抱いているかという軸になる。

 

      強度(強)
       |
       |
       |
       |
(悪)----+----方向(善)
       |
       |
       |
       |
      (弱)


①右上 → 正しく強い信念
②右上 → 正しく弱い信念
③左下 → 間違った弱い信念
④左上 → 間違った強い信念


そして、上図のような構造になり、④→①に向かって良い信念と言えると思います。


と、ここで一つの疑問がわく、強いということは手放しで良いこと。と言って良いのかな?所謂、融通の利かない人間ということではないか?なんとなく融通が利くほうが良いような気もするケド…

と疑問を抱いた私は、信念が目的に対しどの様に影響するのかを具体的に考えてみました。私の場合、目的は「リーダーシップを発揮し成果を得る」が今のところ一番の目的です。

成果を得るためには、上記①~④のどのケースが良いのだろうか?
まずは善悪については自明の理・原理原則ということで、あえて書かなくても良いくらいですね。善い行いには良い結果が、逆に悪い行いには悪い結果が返ってくる。

あとは強さがどの様に影響するかということですが、

強い → 一貫性がありブレない。 融通が利かない。
弱い → 一貫性がなくブレる。  融通が利く。

それぞれ、以上のような利点欠点があると言えると思います。


そして、大体の仕事は以下のような階層で成り立ってると思います。

 

理念
目標
戦略
戦術
計画
行動

 

このように分解し考えてみると、上位概念に行けば行くほどブレたとき、手戻りというマイナスが大きく影響することになります。そしてチームが迷走することになると思います。

例えば、先がYの字に分かれる道を、メンバーは「どっちにいくのだろう?」「左かな?右かな?まー、どっちにも対処出来るようにしよう」「はっきりしておしいな!もやもやする」このような状態ではチームの生産性は良いとは言えませんね。

 

また、物事には善悪の区別があるものと無いものとがあるのではないかと思います。
例えば、人との接し方と、今日のランチでは大きな違いがあるといえますよね。

そこで、善悪のある物事についてはブレない強い信念が必要で
そうでない物事については融通が利くほうが良いと思うのです。

と、ここで、またまた疑問が沸いた(笑) では、「拘り」とはなんだろう?
職人さんが「これが最高!」と自分の生産物に対し自負と自信を持つことだったり、
その生産物が出来る手順に手を抜かないことであったりすると思うのだが....

考えた結果これも同じような構図だなと思う。

「真」「善」「美」など自分が価値があると信じることへの信念。

それに手を抜かず努力することが「拘り」なのだとうと。

僕も価値ある強固な信念持ちたい。それに拘り手を抜かない!そんなリーダーになりたいと思う。

他人にどう思われるかを気にしない「本物の心」

 今日のテーマは、「本物の心」です。

自分の思っていることを言えない時ってありますよね。何故なんだろう?

『なに言っちゃってんの?レベル低いね!』って思われたくないから?

『自分勝手だと思われないか?』という恐れがあるから。

オレは、そんなに人の評価が気になるのかな....?


うーん、気にしているねー。めちゃめちゃ気にしているな~!


そこで、自分の心の中を覗いてみた…

友達から「凄いな!」って言われたい。
親に「立派になったね!」と言わせたい。
色んな人に「尊敬してます!貴方のようになりたい!」
って言われたいなあ。言われたら気分いいだろうなー。

そして、オレのことたいしたことないと思ってたヤツに
「どうや!凄いやろ!まいったか!」

と、ギャフンと言わせたい。
そしたら、スッキリするなー。

ハッハッ!

ハハ。

はぁ~ 

でも、

それでいいのかな?


評価されるって何だろう? 逆説的には他人から否定されないこと。
『あいつはダメだ!、うすっぺらい、仕事できない!頭悪い!』など思われたくない。

ってこと。

でも、それってそんなに重要なことかな?  気にしなければ良いだけのこと…

財産を取られたり、大事な人を取られるわけでもなし。

ただ、自分の心が満たされるか否かの問題。

どうせだったら、本質的な価値のあることで満たされるような心でありたい。
ただ、価値ある善い行いによって満ち。
悪い行いによって枯渇する。

それが例え誰にも知られなくても、評価されなくても影響しない。
そんな本物の心でありたい心。

評価されることが目的って何だか空虚に感じる。
価値ある善いことを行うことが目的で、結果、心も満たされる。
そんな本物の人間でありたい。

だから、自分が善いと思うことを遠慮せずに言おう。
人間だから間違うこともある。間違えたらちゃんと改めれば良いのだ。修正し、自分にとっての善い行いを再定義しよう。

そして、次からは、その方向で実行出来れば、万事問題なしと思おう。


本物の価値あることで心を満たす人間になりたい。

文句言う前に!! 「そうせざるを得ない何らかの理由がある筈」と考える。

私たちは相手に何らかの行動をしてもらいたい。または何らかの考えを抱いてほしいという目的でコミュニケーションするものだと思います。


こちらの都合を直ぐに理解してくれ行動してもらえることが出来れば、そのコミュニケーションは成功といえると思います。

逆に、以下のような結果に陥れば失敗だといえるだろう。

 

・怒らせて反感だけかった。
・行動して貰う代償を多く払った。
・しぶしぶ行動してもらえたが相手は怒っている。
・理解して貰うのに膨大な時間を要した。

 
コミュニケーションの善し悪しがあるということは、同じ目的でもコミュニケーションのプロセスの違いで結果が変わるということだろうから気を付けたいところです。

 

そして、私が良く犯すミスがあります。

それは「いやみな言い方」をしてしまうことです。

 

大体「相手に何らかの不満があるとき」に犯してしまう。

例えば先日、0歳の娘が首を右にばかり向けて寝るので、時には反対側を向かせて寝させたいという目的でとった妻とのコミュニケーション。
(頭の形のバランスに影響するので)

反対側も向いて寝るようにしたいだけなのだが、私には妻の対応への不満があり、心では

「なんで同じ方向ばかり向かせてるんだ!?ちょっとは考えようよ!」

と思いながら、

「反対も向かせたほうが良いよ。少し頭の形もかたよってきているように思う」

と伝えたが、話の抑揚や、わたしの表情から非難されたと思った妻の反応は期待したものとは違い、かなり怖い顔をされた。(汗

 

冷静に考えれば、自分の感情を処理したく言動に影響してしまう。人間の心は言葉にしなくても伝わってしまうものですよね。

思い返せば、わたしはよく自分の視点だけで物事を捉え憤慨し、その気持ちを相手にぶつけてしまう。相手はそれなりの理由があったうえでの行動なので勿論反発し喧嘩になることが多くあった。

不満に感じることがあれば、まず、相手のその行動には

「そうせざるを得ない何らかの理由がある筈」

と思ったほうが良いと気を付けています。

その前提があると、伝わり方が「相手への非難」から「相手への気遣い」に変わり良いコミュニケーションになるのではと思います。